多摩地形めぐり(千葉達朗)

はじめに

東京都と神奈川県境に位置する多摩丘陵は、北東の多摩川を挟んで武蔵野台地と接し、南西の境川を挟んで相模原台地と接している。多摩丘陵の中央部には鶴見川の流域がすっぽり入り、多くの支流に分岐し、その先に谷戸が形成されている。昭和40年代から宅地造成が進み、現在では多摩丘陵の原地形はわずかになってしまった(図1)。

図1 多摩丘陵位置図

多摩丘陵の地質と宅地造成

高度経済成長の時代、多摩丘陵は露頭だらけで、どこでも地質調査を行うことができた。その結果、北部の尾根に、古い相模川の河床礫が残っていることがわかった。それが御殿峠礫層である。堆積後30 万年ほど経っているので、強風化し「くさり礫」になっている(図2)

図2 御殿峠礫層のくさり礫部分
一方、その下の基盤は約100万年前に海底で堆積した砂や泥の地層である。どちらも比較的やわらかい土質だったので、宅地造成もしやすかったのであろう。

赤色立体地図

 この図は、急斜面ほどより赤く、尾根ほど明るく、谷ほど暗くなるように調整した画像で、地形データから計算で作成する。微地形と大地形を同時に把握しやすい。そこで、尾根と谷が入り組んで複雑な多摩丘陵の地形表現に適用を試みた(図3)。その結果、いくつかの興味深い地形がみつかったので紹介したい。

図3 多摩丘陵の赤色立体地図(国土地理院の5mメッシュより作成)

(1)ピラミッド

多摩丘陵には、ときどき小さな砦のような小山がある。赤色立体地図で見るとまるでピラミッドである(図3)。これはいったい何なのだろうか。宅地造成とは、高いところを削って低いところを埋める工事である。ところが、当時、多摩丘陵にはすでに多くの送電線が通っていた。送電鉄塔は比較的高い尾根に立っており、これを移転させるには多額の費用を要した。そのため、多くの地点で鉄塔はそのままにして、周りを平らにして宅地を造成した。その結果、送電鉄塔を上にもつ小山が多数残る結果となった。これが多摩丘陵のピラミッドの真相である(図4、図5、図6、図7)

図4 赤色立体地図 新百合ヶ丘付近

図5 樹木で覆われたピラミッド 送電鉄塔が2本立っている


図6 赤色立体地図 こどもの国付近 

図7 正四角錐のピラミッド 送電鉄塔が建っている

(2)万里の長城

また、多摩丘陵には長くてくねくねした崖や尾根が見られることがある。戦車道路や横山道と名前が付いているものもある。高さを3倍に強調した赤色立体鳥瞰図でみると、両側が切り立った様子は、まさに万里の長城である(図8)。地図と重ねてみると、ぴったり都県境に一致している。開発境界と年代の違いが明確に現れた。
たとえば、東京都稲城市の平尾団地と神奈川県川崎市栗平駅は比較的近い。しかし、間には万里の長城が行く手をふさぐ。乗り越える階段もある(A)が、より低く越えやすいところに抜け道(B)がある。抜け道には真新しいフェンスが設置してあり、管理者とのイタチごっこが続いているようである(図8、図9)。

(A案 鳥瞰表現縦強調3倍 ルート表示入)
図8 赤色立体地図 都県境にある”万里の長城

図9 万里の長城に一箇所だけある階段 

(3)遊水地

宅地造成の結果、地表はアスファルトやコンクリートで覆われ、保水力のある森や水田は少なくなってきた。そのため大雨が降ると鶴見川下流部で洪水が発生することもしばしばであった。
そこで新横浜駅の近くに大規模な遊水地が作られた。その上には人工地盤が築かれ、大きなサッカー場が建設された。赤色立体地図では、堤防の一部が切り下げられ、水位が上昇すると、水が遊水地に流れ込む仕組みがよくわかる(図10)。

図10 鶴見川多目的遊水地

残された原地形

ピラミッドも万里の長城も、いまや多摩丘陵の地形の特徴である。複数の自治体にまたがるグラウンドデザインは難しいのだろう。横浜の港北ニュータウンでは、幹線道路の中央に送電鉄塔を配置している。図3で濃い赤に見える部分は、原地形が残されている地域である。公園として保全されているところも多い。万里の長城の上にもハイキングコースがある。多摩丘陵では、造成工事が現在も進行中である。自然との調和や防災上の問題を考える上で、地形の把握が重要であることを強調しておきたい。

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以下は参考資料


多摩丘陵の地形面区分図 羽鳥・寿円


万里の長城 植え込みの背後は急斜面

万里の長城 青い線が 都県境

(4)ダイダラボッチ

多摩丘陵の南西にある相模原台地相模川河岸段丘で非常に幅が広い。緩やかに南に傾斜しているものの、ほとんど谷らしい谷がないが、直径500mくらいの窪地がいくつか見られる。地名は大沼や小沼など、窪地を意味するものも多い。かつては沼があったところもある。現在ではほとんど住宅地になっているが、大雨が降ると水が出ることがある。赤色立体地図でみると、まるで足あとのように点在している。相模原市では小学校の社会科の郷土の歴史の冒頭で、ダイダラボッチ伝説を習う。相模原台地にある窪地は「富士山を担ぐような大男(ダイダラボッチ)の足あと」だというのだ。市内の鹿沼公園には、それを象徴する足跡型の人工池もある。この窪地の地質的な成因については、町田ほかによれば以下のようである。6万年前に箱根が大噴火しこの付近までTP-Flowという火砕流が堆積した、その後厚いローム層で覆われた。やがてこの火砕流の一部が粘土化し不透水層を形成する。上に地下水がたまるようになる。さらに粘土化が進行。これを繰り返し、結果的に粘土化した範囲は同心円状に拡大する。一方地下水にさらされたローム層は内部の鉄分が溶出し、徐々に下部から潰れるように薄くなっていく。やがて地表面に円形の窪地ができる。窪地は時間とともに拡大をする。同様の窪地は武蔵野台地にも知られており、窪という地名に痕跡がある。


図2 多摩丘陵地質図 アーバンクボタ


多摩丘陵から望む新宿副都心